「なにを遺せますか」建造物 その4

毎日、神田近辺から京橋・銀座辺りまで通っているが、その道すがら気になった遺産的な建物について紹介したい。

神田、江戸橋ときて、前回は改築中の明治屋のビルだったが、今回は京橋のシンボルの復活と戦前からの銀座のビルを紹介して、このシリーズを終わりたい。

1980年代の半ば頃であろうか、私のお客様が京橋にあった。
Tインキ製造さんとH時計店さんで、営業訪問の合い間にこの辺りでウロウロしていた記憶がある。
その当時目についたのが、Aビール会社の看板を掲げたこのスマートなビルだ。
しばらくして、この会社からスーパードライの超ヒット商品がでたので印象に残っている。

87年だったか、某商社のロンドン支店の招きでイギリスのセキュリティ・システム会社へ出張する機会があった。
現地の担当からは何と「余計な土産は要らないので、今話題のスーパードライを運んできてくれ」とのこと。私はロンドンに着いたらPUBで本場のビールをたんまり飲ませてもらうことを交換条件に重い荷物を携えて行った。
既に日本の新聞の現地印刷が始まっていたようで、皆さん日本の情報は細かなところまでキャッチアップされていたことに驚いた。

このビルが最近になって建て替えられたので知ったことだが、ここはもともと第一相互館で、第一生命の前の本社でもあった。
辰野金吾博士の最後の建築物として大正10年に竣工、関東大震災東京大空襲にも耐え抜き、昭和建築の象徴的存在だったらしい。

昭和44年まで建っていたとのことだが、私は同年に上京してきたばかりの新入社員で、残念ながらこの建物を知る機会がなかった。
そして最近、三代目相互館として再び建て替えられたのが、左の写真である。(今年の夏頃の写真)
第一生命創立110周年にあたり「相互館110(いちいちまる)タワー」とネーミングされたらしいが、私の周りでは(私も含め)誰もそのことを知らない。

また、このビルは本邦初「足元商店街付の事務所建築」の再来とのこと・・下駄履き住宅という言葉は昔よく聞いたが「足元商店街付」とは初耳!?
本邦初ということは、この後に建てられた旧丸ビルなどにも大いに影響を与えたであろうことは想像に難くない。


銀座通りから京橋方面、
第一相互間館の眺め、今昔・・



昔の京橋 ・・ 親柱が4本はっきり見え、川沿いには木造建築物も未だ残っている。
京橋川は今は埋め立てられ高速道路となり、ここに橋が架かっていたとは地名から想像するしかない。
左は、小雨そぼ降る先日夕方の写真。
奥は日本橋で、コレド(元白木屋のあと)や建築中のビルが見える。
何度か昔の絵はがきのアングルに挑戦したが、素人写真ではこんな程度。


京橋は歌舞伎発祥の地でもある。
今年3月の歌舞伎座新開場記念「GINZA 花道」の‘お練り’はここから出て、4丁目までが華やかな門出の花道となった。




さて、建物シリーズの掉尾として、右のビルを紹介したい。

この写真は2年前に撮ったものだが、今も変わりなく昭和モダニズムの郷愁を感じさせる建物だ。



この写真でも分かるように、元もと同潤会系感覚のモダンなアパートメントだったが、今は表札のようにギャラリービル(?)になっている。




建物内部に入ると昭和初期の構造やインテリアが楽しめるようだが、私にはこれ以上奥に入ることがためらわれた。

この住宅団地にあるような郵便受けを眺めているだけで十分に楽しめる。



ところで、最近の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、再現された下町風情が楽しめるが、都会の雰囲気をリアルに垣間見ることができるのは、何と言っても昭和30年から40年代当時の映画だ。


有吉佐和子の「不信のとき」(1968)の銀座のバーやクラブの様子、川端康成の「東京の人」(1956)に出てくる銀座界隈などは、演出があったとはいえ今となっては貴重な記録フィルムの価値があるだろう。

上の「黒の試走車」(1962)が、わざわざ都心をテストドライブするとは如何にもフィクションだが、何故かワクワクする物語になっている。

昭和生まれとしては、昭和の雰囲気に浸れる映画をこれからも観続けるつもりだ。

時あたかも、九段下の昭和館では「昭和の東京をたずねる」写真展が開かれている。一見の価値がありそうだ。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/3209/Default.aspx

「なにを遺せますか」建造物 その3

毎日、神田近辺から京橋・銀座辺りまで通っているが、その道すがら気になった遺産的な建物について紹介したい。


これまでは、神田の優雅な丸石ビルや江戸橋の三菱倉庫・本社ビルを紹介したが、京橋にも親しみ深い名物ビルがある。その一つが明治屋の本社だ。

現在この地区は再開発で工事中、明治屋ビルも幌で囲われているが、昭和8(1933)年3月築の歴史的建築物はSRC・免震構造に強化され、今までの形でそのまま遺される。

再開発地区は高層ビルになるが、デザイン的には下の完成図のように明治屋に合わせたツインの前棟構成にしている。(清水建設Web Siteより)

ところで、明治屋はアルファベット表記ではMEIDI-YAだ、MAIJIではない。
(何故か「キャノンではなくキヤノン」という連想をする!?)

明治18年横浜で創業し、「食から文明開化を推進」との意気込みが、その名前や表記からも伝わってくる気がする。


同社のホームページを訪れ、その沿革を見ると驚かされる。

「1907(明治40年)米井源治郎、磯野長藏 他8名、発起人となり麒麟麦酒株式会社設立。」何とキリンビール創始者だったようだ。

また、「1908(明治41年)PR誌「嗜好」を創刊」と100年以上前に広報活動をしていることが分かる。


「1911(明治44年)株式会社明治屋設立。
MYジャム発売。」我々に馴染みのあるジャムブランドが100年以上前からあったとは驚きである。

明治屋のターゲットとした客層は、外国人や上流社会の一部の日本人であったのだろう。ロゴでも「PROVISIONS & WINE FROM THE WORLD」(世界の食べ物とワイン)と誇らしげに謳っている。



以前に、この建物に刻まれた「PROVISION」の単語が気になって、たまたま撮っておいたのが左の写真だ。辞書を引いたら、「複数形で食料」とあったので、納得した記憶がある。

建物の周りには、このPROVISIONに加え「WINE」という言葉が複数の箇所にあった。


右の写真の「My」マーク入り飾りテントの下にもPROVISIONとWINEの言葉が隠されていたのが分かったのは、テントの解体時だった。

創業時のものと思われるロゴの文字を昭和のビルに刻み込んだ思い入れに脱帽する。



実際に明治屋で買い物することは少ないが、同社が輸入しているウイスキーにはお世話になっている。


直近では、この強烈なバッファローラベルのバーボンを愉しんだ。

奨めてくれたバーの店主のウンチクでは、このラベルの形は、バッファロートレース蒸留所のあるケンタッキー州の地図の形ということだが、定かなことではない。

こちらを訪問すると楽しくなり、成る程となります。
http://www.meidi-ya.co.jp/merchandise/alcohol/buffalo_trace.html

「なにを遺せますか」建造物 その2

毎日、神田近辺から京橋・銀座辺りまで通っているが、その道すがら気になった遺産的な建物について紹介したい。

前回は神田の優雅な建物・丸石ビルの物語であったが、今回は江戸橋の三菱倉庫・旧本社。このビルも1930年の竣工で、戦火を免れている。
同ビルは昭和通沿いにあり、兜町にも隣接しているので、わりと知られた建物だ。


2011年に旧ビルの解体工事に着手し、高層オフィスビルに建て替えて2014年8月に完成の予定との案内板。
日本初のトランクルームを設けたビルで、東京都選定歴史的建造物でもある。
よって、建て替えも、低層階の7割方は残しながら、高層部を立ち上げるという工夫をしている。


解体工事前に張られたシートを見てびっくりたまげた記憶がある。

この外壁シート、見事に従来のビルの姿を映し出している。そして、前のビルの形は残しますよと主張している。

私は思わずシャッターを切った。
2年前のことだ。

この時思いだしたのは、野村証券のロンドン/シティー進出時のこと、古いビルを取り壊し高層のガラス張りのビルに建て替えようとした事件だ。
なぜ事件かというと、当局から工事差し止め命令が出たからだ。
結果的には旧ビルの外壁を遺した建造物で許可が出たらしいが、80年代の事ゆえ私の記憶も定かではない。
そのシティーも今や高層ビルが立ち並んでいるとのことだが・・



ひと月程前にチェックしたら、写真の様に高層ビルもほぼ出来上がっていた。今は、もうそろそろ完成に近づいているはずだ。

一部にまだ外壁シートが残っていたが、パッと目には壁かシートか見分けがつかないくらい見事なもので、改めて感じ入った。

低層部は本社オフィスとなり、高層部はで賃貸オフィスになるとかで、「貸すことがビジネス」を徹底している倉庫会社らしい。




船橋をイメージしたという塔も遺される大切なシンボル。

工事の案内板にはこんな絵も・・明治のころの「江戸橋三菱の荷蔵」





同じく重要文化財である高島屋日本橋店の外装工事。

昨年撮った写真だが、三菱倉庫のそれに比べると、メルヘンチックな「だまし絵」シートになっていた。(紙バッグのデザインと同じ)


次回紹介の建物は、これも誰でも知っている明治屋だ。
周りは高層ビルに建て替えられるが、ここだけは遺そうという試みをチェックしたい。

「なにを遺せますか」建造物 その1

前回は、中野孝次さんの「何を遺せますか」という本に触発されて、自問自答しようとしたのだが、結局、親の形見分けという最も身近で、かつ現実にあったことを紹介することに終始してしまった。

今回もごく身近なところで、日ごろ通勤時に眺めている建造物の遺産物語としたい。

毎日、神田近辺から京橋辺りまで通っていると、日本橋・京橋界隈の古いビジネス街がどんどん新しくなっていることに気付かされる。東京駅の向こう側の三菱村に対抗するように、老舗の多い日本橋三井グループなどによって変わり始めている。


先ずは神田・鍛治町の丸石ビル。

中央通りから入ったところに在るので目立たないが、今どきこんな優雅なビルがあるとは驚きである。

関東大震災の数年後、世界恐慌の年に着工され、1931年の竣工とのことで、東京大空襲にも耐えきって、80年以上の歴史を誇り、改修されながら大切に残っている現役ビルだ。

千代田区の案内サイトによると、「6階胴蛇腹と頂部のテラコッタ製蛇腹で外観に変化を与えています。」との説明があり、デザイン的にも殊の外拘ったビルという印象だ。


この建物で一番驚かされるのは、1階部分の彫刻の数々である。

1階は総竜山石づくり。
竜山石は高硬度ながら加工が容易で火にも強いと言われている。

何年か前に、黒ずんだ外壁がきれいに洗浄され、鮮やかな黄色の外壁と彫刻が蘇った。
このビルの設計は、山下寿郎という方で、この方は日本初の超高層ビルである霞が関ビルの設計もされたという。

霞が関ビルは1968年竣工なので、1931年の丸石ビルから数えて37年後。
二つのビルはその間の建築設計技術の発展、変貌ぶりを我々に分かりやすく示してくれていることになる。


日本初の超高層ビルも竣工から46年になる。

私は、このビルができたてほやほやの1969年に、同ビルの真ん前の会社に入社したので、ことの他、思い出と思い入れのある建物だ。


丸石ビルの正面には文化庁の銘板があり、国の文化財になっている。
そこには、
“この建造物は貴重な国民的財産です”
とある。


次回は、江戸橋の三菱倉庫・旧本社を紹介したい。
あ、あのビルかと思われる方も多いと想像できる建物である。

「なにを遺せますか」

何か月前に、ある図書館で書籍の入れ替えに伴う除籍本を貰ってきた。
その中の1冊に中野孝次さんの「何を遺せますか」という単行本があった。15年くらい前の上梓で、彼が亡くなる数年前の作品のようだ。
“残す”ではなく、後世にまで“遺せる” ものがありますかという問いかけにドキリとして読んでみた。

前段では、日本人は何でも見境なく壊して捨ててしまうが、欧米では旧いものに価値を見いだしキチンと遺していると言うような論調であった。
最終的には、遺せるものは物質的なモノや勲章、金銀財宝ではなく、文明や文化であり、人の心の持ちようや生き方、人格であるとのことだ。
ISBN:4532163056

ハイレベルの議論はここでは置くとして、素直に共感できたのは遺産、それも身近な形見分けのくだりである。
「形見分けはじめて嫁の欲が知れ」
「泣きながら眼(まなこ)を配る形見分け」
「泣き泣きもうかとはくれぬ形見分け」
こんな戯れ言の紹介に思わずニンマリ、納得・・


さて、私も家内も既に両親は亡くしている。
形見分けというほどの大層なものではないのだが、生前使っていた幾つかのモノを貰って重宝して使っている。
以下、自分ものがたり。


実父は工務店をやっていた。
戦前からの大工であったが昭和24年(1949年)に肺結核で亡くなっている。
当時2歳であった私は写真でしか父の顔を知らないのだが、どういう訳か父の使っていた巻尺が私の手許にある。
Fine & Durable Tape Line Coverと刻印された革カバーの頑丈なモノだ。普段は市販のメジャーを使っているが、不動産物件などをチェックする時にはこれを持参し定尺とどの程度違う畳であるかなど、実寸を測っている。
このテープは優れもので、CM尺と寸尺のリバーシブルになっている。CMで測ってもいいのだが、寸で測っているとそれを見た不動産業者の顔付きが変わるのが分かる。建築関係の専門家と勝手に間違えられ、訊いてもいないことを語りはじめた例もあった。
その父が亡くなって2年後には、結核予防法が制定され、結核の特効薬ストレプトマイシンが普及して結核で亡くなる人が激減した。
父の遺作は滋賀県の長浜にあった映画館と聞いている(今はもう無いとのこと)。


一方、義父は6年前に亡くなった。
享年93歳だった。
義父のまだ下ろしていなかった下駄を分けて貰い、週1回の愉しみである銭湯の往来に使っている。
冬でも素足で履き、指でキュッと緒を絞めて歩くのは何とも気持ち良いものだ。
舗装されている道では、カランコロンという下駄の音がよく響く。ただしいつも同じカランコロンではない。歩き方、足の上げ具合で違う音になる。今日は元気に歩けているとか、足が上がっていないとか、音で気付かされる。雨の日はカランコロンとは響かない。音は道路の環境でも変わるのだ。
これを2年ほど愛用しているが、どうも歯の外側が片減りしてきたようで歩き難くなり音も良くない。どうしたものかと試案していたら、下駄は靴と違って左右がないことに気付いた。これまでは何となく鼻緒の履き癖で左右を決めていたが、今は左右逆に履き替えて片減り調整している。


「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」・・女流六歌仙と言われる田ステ6歳のときの作とのこと。
文字を習い始め、何にでも興味があったのだろう。下駄が雪の上に描く「二の字」に思わずこんな句を詠んだものと想像される。
今年は東京でも雪の量が尋常ではなく、
「二の字」の体験は無理だった。「二の字」を書くのは1、2センチの新雪が丁度良い。

下駄にまつわる言葉も興味深い。
[下駄を預ける、下駄を履かせる、下駄を履くまでわからない、下駄替わり、下
駄履き住宅、下駄の入っていない下駄箱、ゲタさん(?)... ]



義母のモノでは、やはり着物関係だろう。
それもタンスごと。中味が選別できないので、そのままもらってきたのが実情だ。
今住んでいるところでは置き場に困り、別の場所で保管している。
桐箪笥は虫が食わないと聞かされていたが、土台の一部がやられていた。良いものと聞いていたが、全てが焼き尽くされた戦後間もなくの作だから総桐製とはいかなかったようだ。

「何を遺せますか」では、古いものを捨て無暗に新しいもの設えることを悪習としているが、一方で「断捨離」のススメもある。
この大型形見は悩みどころだ。



実母は2年前、白寿の誕生日の前日に亡くなった。正確に表現すれば、キッチリ満99年間を生きたことになる。
某県知事からの長寿祝いの扇子・・ま、これは良いとして、その付属物の扇子立てがあったので見てみると、丁度スマホをセットするのに都合良い。今までのものは下に延びるコードが上手く捌けなかったが、これだとちゃんと納めてくれる優れものだ。



中野孝次さんは著書の終わりの方で、白洲次郎がプリンシプルに忠実だった人物として紹介している。
プリンシプルは、状況や関係が変わるたびに意見や態度がころころ変わるのではなく、どういう状況にあっても一貫性を与えるものとのこと。
ケンブリッジ仕込みの英語を駆使する白洲次郎は、占領軍という圧倒的強者に対しても明確に意見を主張し、考えが違うと堂々と議論し合うジェントルマンの気骨を持っていた、と。
ISBN:4101288712


本稿では、「何を遺せますか」から「形見分け」路線に脱線しっ放しであったが、果たして私自身は何を遺すことになるのだろうか、今のところ何の確信も持てず悔しい限りである。何かをしなければ!という焦燥感に駆り立てられている日々であるが、先ずは元気なだけが取り柄と喜び慰めている。

皮と革 −年度替わりにあたって− 

やっと暖かくなった。
春だ!
新年度だ!
新世界に乗り出すために、大人も子供も一斉に“脱皮”するシーズンになった。
脱皮し、改め、革める。
緊張感が漂う季節でもある。

そんな気分もあって、脱皮の“皮”と革新の“革”・・同じカワだが、あらためて参考書を引いてみた。
漢字解説で定評のある白川静博士の説ではこうなっている。

なるほど。
“皮”にまつわる言葉は総じて自然界の事柄やそこから生じる言葉(一皮剥ける、皮切り 等)であり、“革”に関しては人がその意思でもってあらたまること(変革、改革、革新、革命 等)のようである。

社会人にとっては、新しい環境に適応し、新しく策定した目標に到達するためにどのように自らを革め、組織と運営を改めていくかが試される緊張の時期が年度替わりであろう。
成長のためには、持続的な変化が不可欠。

ところで、いざ鎌倉という時代なら革から連想するのは、鞍(クラ)や鞭(ムチ)等の武具かもしれないが、現代のサラリーマンにとっての武具は、さしずめ鞄(カバン)や靴(クツ)だろう。

勤め先の近くに日本で一番古いのではないかと言われているカバン屋さんがある。その前を通るたびに「欲しい!」と思わせる素適な武具が並んでいる。よく観ていると2週間位で商品を入れ替えしているようだ。その店は「銀座タニザワ」という明治7年創業の老舗。

同社のWeb site(http://ginza-tanizawa.jp/)によると、初代の谷澤『禎三が考案したといわれる「鞄(かばん)」の文字を看板に掲げたところ、これが銀座をお通りになった明治天皇のお目にとまり、侍従職を通し「何と読むか?」との御質問を受ける。これをきっかけに「鞄」の字が全国に広まったと伝えられている。』とのことで、明治の中頃には辞書に載ったとされる新語であった。鞄という現代語の始まりがこの店にあったとは驚きである。


面白くなって語源をいろいろ調べてみると、カバンは中国語(あるいはオランダ語)の発音に由来するようだが、漢字の「鞄(ほう)」は元々なめし皮の意味だったらしい。しかし、革で包むというカバンの文字は今となっては実にピッタリした当て字だったと120年前の先人のアイデアを称えたい。

良いデザインの革の鞄、これは年度替わりにかかわらず、何時でも、幾つでも欲しい憧れのアイテムの代表だ。
春だ!
新年度だ!
気に入った鞄を携えて脱皮したいものだ。

初体験“クラウド・ファンディング” ―報告―

Crowd fundingで上梓された田澤由利さんの本がとどきました。安倍晋三氏推薦とのこと。
巻末に私の名前もcrowdの一人として入れてもらっています。

以下、「田澤由利のテレワーク通信」から・・

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◇◆田澤由利著「在宅勤務が会社を救う」・1月31日発売◆◇
http://www.telework-management.co.jp/archives/news/01050.html

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田澤由利が、クラウドファンディングを通じて、出版を実現した書籍、
「在宅勤務が会社を救う 〜社員が元気に働く企業の新戦略」が、1/31
東洋経済新報社より発売されました。

在宅勤務が、企業にどんなメリットをもたらし、また、どのように企業
の課題を解決し、より強い会社にしていくのか。「企業戦略」としての
テレワーク(在宅勤務)について、詳しく解説している渾身の一冊です。
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