新聞で取りあげられたPazzle !!

前々回は日本経済新聞の「私の履歴書」について3氏の記事を参照し、前回は記憶に残ったコラムを取り上げた。今回は取引先関連の記事について紹介したい。

筆者は長年、海外のコールセンター用システムを国内で販売する仕事に従事してきた。
以前は主に米国の会社と取引していたが、会社の看板はUSでも実際にはイスラエルに開発拠点を持つ会社が多くあった。そんな縁故から、2001年のある日突然Eメールが来て、イスラエルからそちらに向かうので会いたいとのこと。それがパズルの会社を作ろうとしているビジネスマンMr. D. G.であった。
その時初めて知ったのだが、Sudokuというパズルブランドは日本発祥で、その創始者に会うことも彼の来日の目的の一つであった。

Sudoku・・この記事の様に漢字で書くと「数独」だが、その意味はすぐには理解できない。

来日したその方に聞いてみると、以下のようなことであった。
「以前来日した時に、電車の中などで何やら熱心にパズルを解いているのだが、今まで目にしたことの無いパズルで興味を持った。調べてみると、これらのパズルは“Sakka (作家)”という人が手作業で制作しており、複数の正解が有ったりしないよう念入りな論理チェックなどの精査で時間がかかり、量産は困難という事情が分かった。」とのこと。
そこで頭の良いイスラエル人のこと。これをコンピュータで自動的に生成、ディバッグできるようにし、世界中から自由にダウンロードできるような仕組みが作れないものかと考え、新しいビジネスを立ち上ご要としているとのこと。


数独創始者の鍛冶さんの記事によると、「ナンバープレース」というオリジナルのパズルからヒントを得て「数独」を創作したようだ。同氏が言うように、文字を使わない数独には国境がないので世界的ブームになったようだ。

話しは変わるが、それまでは、何となく日本的な言葉ということで、英国のパズル雑誌の名前にTSUNAMIが使われていた。
6年前の東日本大震災が世界的に報じられ、TSUNAMIの正確な意味が広く知られるようになって、直ぐに改名されたのは言うまでもない。



日本では西尾徹也氏や世界文化社が尽力され、世界パズル選手権に選手団を派遣している。
2010年には、右の記事の様に有松太郎氏が日本人として初めて個人優勝した。
団体も優秀で、この10年くらいはドイツやアメリカに抗し、銀メダルを獲得している。


アルファコムは、イスラエル国コンピュータ パズル・メーカのConceptis社の日本支社として活動、その後、2007 にJapan会社設立・分離するまでサポートしていた。
Conceptisは、現在100カ国以上からアクセスがあり、毎年25,000人ほどが新しくロジックパズルのメンバーに加わっているという。


http://www.conceptispuzzles.com/ja/
興味ある方は、このサイトを訪れてください。

記憶に残る新聞コラム

前回は日本経済新聞の「私の履歴書」について、今年の8月から10月にかけて掲載された3氏の記事を参照したが、今回以降は肩が凝らないコラムで記憶に残っているものを紹介したい。

先ずは私のビジネスフィールドで一番大切にしなければならない“顧客満足”についてのこと。

10年くらい前と思うが、月尾 嘉男さん(東京大学名誉教授)のコラムから、身の回りのちょっとした事例で “カスタマーファースト”を教えていただいた。
スポーツ欄に載った小さな囲み記事、そのコピーを長らくとってあったが今は見つからない。そこには、彼のゴルフプレー時の体験が書かれていた。

「月尾 嘉男の洞窟」サイトより
曰く『大概のゴルフ場の洗面所には「タオルの持ち出し禁止」という注意書きがある。なぜ禁止なのだろう。客が必要性と利便性を感じて持ち出すのだから、むしろ「どうぞお使いください」というべきではないか。タオルが無くなるから禁止なのだとすれば、プレー後に回収箱に入れてもらえるような工夫をすればよい。客が汗を拭いたタオルを持って帰るとでも思っているのだろうか。』というような趣旨であった。
そこには“顧客第一主義”とかの文言は一切ないが、ゴルフ場の都合を優先するのではなく、顧客の利便性に心配りしたらどうかという強い主張が感じられ、その通りだなと印象に残った。多くのゴルフ場関係者もこの記事を読んでいたはずだが、タオルの件は今も変わってはいない。

ゴルフ場に限らず、日本では「禁止」という規制が多い。その理由を訊いてみてもはっきりした答えが返ってくることはあまりないのではないか。
海外で問題にされていないことが日本ではNGになっていることも多い。「禁止」の理由を日本人にだけでなく、異なる文化的背景をもつ人々にもはっきりと示せないようでは心もとない限りである。

二度づけ禁止は分かるが、それ以外は??

次は、福岡 伸一さん(青山学院大学教授)の「なくしたピースの請求法に感心」という記事だ。
やのまん」というパズルメーカーでは、無くしたピースを無料で提供してくれるという。
私も昔はよくジグソーパズルを楽しんだが、同氏が書かれているようなピースの紛失というのは経験したことがないので、このことは全く知らなかったし、考えたこともなかった。
本当だとすると素晴らしいアフターサ−ビスではないか !! といたく感心し、この記事を取っておいた。

(2014年12月14日付け)
ただ2年前の記事なので、現在でも同様のサポートがあるのかと改めて「やのまん」のホームページを見てみると、確かにそのように謳っている。
http://www.yanoman.co.jp/contact/request.html

これはパズルメーカーとしては小さなサ−ビスかもしれないが、最後のピースが見つからずに根気と努力の集大成があと一歩のところで成就できないパズルファンにとっては、感謝感激雨あられのサ−ビスだろう。

大上段に構えてもなかなか実行に移せない“顧客満足向上”施策だが、ちょっとした心遣いからでも始められる例だ。むしろ、そうした気遣いが満足感のあるもてなしの原点かと感じた記事であった。

気が付いたら、新聞の切り抜きが結構溜まっていた。
このブログを書くに当たって整理してみたら、なぜこんなものをスクラップしていたのか意味不明のものも多くあり、お蔭で断捨離に成功。
次回以降は、断捨離できなかった記事について紹介してみたい。

私の履歴書

日本経済新聞を長年に亘り購読しているが、大体は1面の見出しをチェックしたのち、大きく引っくり返し、最終面の「私の履歴書」や「交遊抄」を見ることが習慣になっている。
「交遊抄」ではたまに存じ上げている方が執筆されたり紹介されたりするので、気になっている。
また、「文化」欄も和める内容が多く、肩が凝らずに読み流しできるので、好きな企画の一つだ。

さて、最近の「私の履歴書」は、ノーベル賞大村智氏、吉野家の安部修仁氏、ゴルフの樋口久子氏だ。
以下、それぞれの掲載初日から言葉をいただく。

8月の大村さん:

『普段の講演は1時間くらいで2回ほどジョークを入れるが、ノーベルレクチャーはまじめ一本で通した。こだわったのはポリシー、つまり研究にのぞむ自分の考え方と、カルチャーの話を入れることだ。日本の茶の湯のスライドを映し、「一期一会」という言葉を紹介した。』
ノーベル賞を受賞できたのも人との出会いを大切にしたからで、この言葉には特に強い思い入れがある。出会いを感じない人、出会っても生かさない人もいるが、袖振り合う縁も生かすというのが成功のもとだ。』


2015年ノーベル生理学・医学賞の発表直後に訪れた北里研究所本館では、歴代所長に同氏の名前を見つけることができた。グッドタイミングで印象に残った[博物館・明治村]めぐりであった。

9月安部さん:

『危機の度に向けられる言葉がある。「単品経営だからリスク管理ができていない」。だが、それは間違っている。単品だから品質を極め、際立った業績を上げ続けたのだ。単品経営はリスクテイクであり、独創性の高い絶対的な価値を生み出す。』
吉野家は不思議と申(さる)年に大きな節目を迎える。』

入社12年目の80年申年に倒産。次の92年には親会社になったセゾングループの経営問題で急遽42歳で社長の椅子に。2004年は米国でのBSEで牛丼販売中止。その12年後の今年、発祥地の築地店が豊洲移転を今月に予定していたが・・。

アルバイト入社で62歳だった阿部さんは、同じくアルバイト出身の43歳の若手を3年がかりで口説き落とし後継社長に指名した、という4年前のことを振り返った最終回のくだりも胸を打った。
「たかが牛丼、されど牛丼」だ。


私も新人サラリーマンのころ、今でいうSL広場の北東角にあった吉野家でお世話になった。
また、当時ピッカピカでオープンしたニュー新橋ビルのサウナで一晩を明かしたことも度々であった。今ではすっかり“お父さんのテーマパーク”化しているご当地だが、東京オリンピック後のプロジェクトとして西口駅前(赤で囲われた地区)が再開発されるとのこと。ニュー新橋ビル50年の歴史を噛みしめておきたい。

10月の樋口さん:

『大会前から注目選手が「金メダル確実」などとメディアに取り上げられるのをみると「もう少し静かに見守ってほしいな」とちょっと気の毒に感じたものだ。 (〜中略〜) 勝負事は水もの。私はプロゴルファーとして通算72勝(国内69勝、海外3勝)を積み重ねたが、心底そう思う。 (〜中略〜) 「ごめんなさい」と謝る吉田沙保里さんの涙顔は痛々しかった。主将も務め、とてつもないプレッシャーがあっただろう。』
常勝が当然と思われていた彼女が、自分の現役時代とダブらせて語り、自身も決して順風満帆の航海ではなく、『私が愛唱するのは美空ひばりさんの「川の流れのように」。その歌詞みたいに、でこぼこ道や曲がりくねった道を歩んできた私の人生』と振り返っている。

18回目の記事に、全米女子プロ=メジャー初制覇の77年、PL CCで開催の日本女子プロで岡本綾子選手らに競り勝ったことが書かれている。
当時、私はPL教団の塔やPL花火大会が遠望できる泉北ニュータウンに住まいしていたので、リアルで観戦していた。人気が出てきた剛腕・岡本選手のスイングとショット音にびっくりした記憶が思い出される。

60年に亘る「私の履歴書」の中で、ゴルファーが何人くらい登場しているのかチェックしてみた。
83年宮本留吉、06年ジャック ニクラウス、10 年青木功、13年岡本綾子、14年トム ワトソン、そして今年の樋口久子の各氏だ。
10月に日本人初の世界ゴルフ選手権シリーズを制覇し、世界ランキング6位になった松山英樹選手が、4,50年後にはここに登壇するだろうか・・。

ということで、この3ヵ月は、私にとって馴染みやすい方々の登場で「私の履歴書」を楽しませてもらった。


ところで、殆んど使い道の無くなった自宅の固定電話をそのうち廃止しようと思っている。同時に、新聞“紙”の購読もどうしたらよいか悩んでいる。

新聞は、かってのように朝一番で最新の出来事をチェックするものではなくなっている。今では電波媒体で何でも素早く報道されるし、電子媒体、なかでもスマホは速攻で必要な情報を知らせてくれるので、“朝一”の大切な情報源というようなイメージが遠のいている。
昔は知識の宝庫であった。弁当箱を包む便利なものであった。畳の下にも必ず敷いていた。紙兜を作って遊んでいた。ティッシュペーパーと交換してもらった。
今は資源ごみとして出すだけの存在である。

団塊世代が完全卒業する6年後(73‐75歳?)に新聞“紙”存亡の危機が来そうだ・・というような記事をどこかで見かけたが、果たしてどうであろうか。

コールセンター業界では、コンタクトチャネルとしての電話は無くなると言われ続けて久しいが、いまだに最大のチャネルであり、如何に応対効率を上げながらお客様に満足していただけるかが各社の課題になっている。また、通販業界でも紙媒体(カタログ)が無くなると言われているが、なお最強のプッシュメディアとして健在である。
新聞の紙メディアは如何なものであろうか。
「たかが新聞、されど新聞」かな!?

世界一の極薄ビル?

前回に引き続き、勤め先である京橋・銀座界隈の話になる。

普段は見慣れているので何とも思わないような処で、やたらカメラのシャッター音をさせている海外からの観光客が目に留まった。
何を撮っているのか、レンズを向けている先を見てみて驚いた。ナニコレ!このビルは!
どうやら、「世界一薄っぺらいビルディングを発見!」と興奮しているようだ。
今まで何回となく通っている道だが、こんなアングルでの光景は初めて見るので、こちらが驚いたというのが正直な印象だ。
2年前の桜の季節のことで、ホテル西洋銀座の建物はまだ残っている。

その薄さが世界一かどうかは別として、確かにこの写真を見るにつけ、よくまあこんな建物を造ったものだと感心させられる。
盛んにシャッターを切っていた観光客が、建物の反対側に回って全体像を確認したかどうかまでは分らないが、右の写真のように、銀座通り側から見ると多少薄いが極普通のビルだ。
江戸時代の地図を見ても分かるのだが、京橋の川上で京橋川が不自然な曲がり方をしている。誰かの屋敷を避けてこんな流れにしたようだ。
左の地図はGoogle Mapで少し見難いが、「銀座通り口」表示の左に鋭い三角形の土地の形が見て取れる。
江戸時代からの土地の形をそのまま生かした近代三角ビルだ。


ついでながら、この近くにもっと薄い建物がある。
お隣のビルにへばりついたようなレストランで、驚くことに屋上にも席を設けてある。
真横から見ると、横断歩道の白線サイズの幅しかない建物だ。

以前、花屋さんだった時は、いつも多くの愛好家がスケッチに訪れていた名所的スポットだった。

こんな狭小地でも立派にビジネスが成り立っているようだ。銀座の地価の高さが為せる業だろう。
そんな贅沢な場所にある仕事場なので、それに見合うようなもっと生産性の高い仕事を目指さなければいけないという思いの毎日である。

三角地は私にとっては縁のある地形だ。
1969年に新入社員として上京し、初めての仕事場が溜池の三角地であった。
偶々見つけた江戸末期と思われる地図でも当時からのキレイな三角地であったことが分かる。
東隣りは溜池葵町と読めるが、入社当時は専売公社の葵会館があり、よく食事や喫茶をした場所だった。
北側には永田町、三年町、霞ケ関町の表示があり、東側には琴平町もある。

大根役者 発祥の地!?

勤め先の地は京橋・銀座界隈で、江戸開府からの名残りが数多く見受けられる。

かっての京橋川は今は首都高速道路の高架下になってしまったが、京橋のたもとには写真のような案内板があり、かってここには大根河岸、白魚河岸、薪河岸、竹河岸があったことが紹介されている。


「京橋大根河岸 青物市場跡」と記した立派な石碑も立っており、今はビルだらけの場所が、かっては多くの生活物資の荷上場であり、市場であったことが分かる。
水運を生かした産地と消費地を結び付けているマーケットプレースだった。

ここでは数年前から月一回、大根の他、イチゴやバナナなどの青果物をを無料で配っている。

私も大きな袋一杯の青果物をいただいたことがある。
平成26年が京橋大根河岸開設350年にあたるということで、350本の大根を配布する企画が今も続いている。
『大根発祥?の地だ!!』


[月1回の大根無料配布日には長い行列が続く京橋大根河岸]

大根河岸の碑の隣には「江戸歌舞伎発祥之地」という碑が建っている。

曰く「寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓をを上ぐ これ江戸歌舞伎濫觴也」とのこと。(注:寛永元年=1624年)
大谷竹次郎 題となっているが、同氏は松竹の創業者であり歌舞伎座の社長でもあった。

2013年、新築なった歌舞伎座の完成を祝って歌舞伎俳優オールスターが銀座通りを練り歩く「GINZA 花道お練り」が開催されたのもまだ記憶に新しい。
この「五代目」歌舞伎座の襲名披露は、江戸火消し木遣り衆の先導する豪華なものだった。これだけの規模のお練りは銀座歌舞伎の歴史の中でも初めてのことと言われている。

[写真は、オフィスからみたお練り]
ここは『江戸歌舞伎発祥の地だ!!』

先の、大根発祥?の地だ!!・・と併せると
『大根役者発祥の地』となるではないか!?

因みに英語では大根役者を Ham Actorと言うらしい。大根役者の本当の語源はともかくとして、大根にしてもハムにしても日本と海外では欠かせない食材だ。大根役者は無くてはならない文化と強引に解釈して、京橋をその発祥の地としておこう。


その京橋のたもとにブラザー工業の東京ショールームがある。
玄関周りを飾る歌舞伎ブラザーのカラフルな写真が目を引く。
初代の中村ブラザーは地味目であったが、二代目は艶やかだ。
ブラザー工業曰く、「中村勘九郎さん、中村七之助さんがいるのは世にも絢爛豪華な世界。勘九郎さんが袖を翻すと、背景の富士山や太陽が無地の和服に描かれていきます。 -- 中略 -- こうしてできた色鮮やかな衣装をまとったお二人がポーズを決め、最後はお二人で「ヨッ!」「できる4色!」と、歌舞伎お決まりの掛け声です。」


初代中村勘三郎が創設した猿若座中村座)の場所に、400年近い年を経て中村ブラザーがお目見得しているのも何かの“併せ技”なのか・・

古地図と照らし合わせ、今の京橋界隈を見てみると面白い発見がまだありそうだ。


それと、これらの碑がある小公園にはこの辺りでは珍しい1本の大島桜がある。
真っ白な花は染井吉野より開花が早いような気がする。花と同時に青葉も芽吹くので、白と緑のコントラストが清々しい。
因みに、桜餅は大島桜の葉で優しく包まれるお餅だ。



ロンドンオリンピックの凱旋パレードも2012年の暑い盛りにこの辺りからスタートしている。
数十万人の人出という空前の歓迎ぶりで、上の写真のようなパレードがあったはずだが、あいにく外出先から戻ったらオフィスに入れず、ましてや銀座通りにも到達できず、横道からの何も見えない声援になった。

中央通り・・なかでも銀座通りと言われているこの辺りは、華々しく晴れがましい披露には日本一もってこいの場所だ。

転機となった2006年 − その2 −

この年はよく出張(旅行?)していた気がする。

ポートランドから帰国した翌々日には九州の製薬・通販会社を訪問させていただいた。
過去の反省をもとに、お客様に愛されるテレマーケティングの再構築を目指されている真摯な姿勢や、人々の生活を健やかに幸せに彩っていきたいという願いを込めた「薬彩工園」と銘うったきれいな庭園工場も見学させていただいた。


そして、8年ぶり2度目の韓国である。
何故かアメリカに続き今回も招待旅行だった。今度の招聘理由は、東京地区からの企業ということで依頼された。(そう言えば、西日本からの参加企業が多かった気がする。)

韓国は日本の人口の半分以下で経済規模も3分の1以下、「輸出立国」を標榜している京畿道が主催するアゴアシ付き商談会に招かれた形だ。

宿泊地のスウォン(水原)でサムスン電子の本社を訪ねた際には、我々に対する見事なプレゼンや期待以上の応対振りに感心。元気のない日本のメーカーが追い抜かれるのもさもありなんと感じた。1960年代に日本の電気メーカーで学び、69年に創設した韓国の会社は、30有余年で日本に追いつき追い越したことになる。

光教テクノバレーではこれはと思う商談ができなかったが、華城や民俗村など韓国の文化遺産に触れることができ、最先端テクノロジー企業の訪問体験を楽しむことができた。
当時のメモを見ると、李健熙氏の“Change everything except your wife and children.”と言う言葉があった。なにこれ!と思ったけれども・・良くも悪くも韓国ビジネス界NO1のモーレツ振りを物語るフレーズである。
今では当時とは状況が変わってきているのは言うまでもないことだが。

スウォンでは成果がなかったので、ソウルで再度の商談会に臨んだ。(何せ招待なので主催者主導型である。)
そこで出会ったのが通話録音システムのVoistore社だった。
その場は説明を聞くだけで終わったのだが、帰国後同社から日本での販売に協力してくれるよう要請があった。
Lim社長に対しては、日本での販売においては品質やサービス面でそれなりの覚悟が必要であること、簡単にはマーケットに受け入れられないことなどを説明し、一旦は断ったが、それでもやりたいというので、先ずは日本のコールセンター業界を勉強してもらうこととし、「第7回コールセンター/CRMデモ&コンファレンス」をじっくり見てもらった。


翌年1月にはVoistore社やそのユーザー企業を訪問し、システムの性能や運用実態を調査したり、3月には日本の代表的なコールセンターベンダーやユーザー各社向けの内覧会をしたりして、徐々に日本での販売の可能性の確信が得られるようになってきた。
その後も両者で何回も話し合いを重ねた結果、日本でのマーケティングを決断した経緯がある。


そして、2007年11月には「第8回コールセンター/CRMデモ&コンファレンス」に出展し、初めてのお披露目をすることができた。
その後は紆余曲折を経ながらも順調に売れ始め、多くの代理店企業様のご協力を得ながら、全国規模での納入や24時間稼働のお客様への導入などを実現した。


ところで、転機・・とは2つの意味がある。
1つは、欧米のシステムから隣国のソリューションを取り扱うことになったこと。2つ目は、今までの取引がもっぱら「海外企業の日本マーケットでの水先案内人」であったことから、自らがマーケティングし、販売から納入・保守まで一貫した体制での取り組みになったことである。


こうした活動や実績が評価され、韓国の超大手企業との業務提携に発展し、日本のマーケットにMobile時代の最新システムや新たなソリューションの提供をすることに繋がった。
そうした転機が2006年だった。

この転機のきっかけとなったVoistore社の初代社長Lim氏が9月に早世された。

本年11月の「コールセンター/CRMデモ&コンファレンス2015」(第16回)には、2代目のLee社長を迎えて新しいVoistore社の門出を広く日本の関係者の方に知っていただく機会となった。

転機となった2006年 − その1 −

コールセンターのビジネスを始めて25年、アルファコムを起ち上げて早や18年になる。
その間いろんなエポックがあったが、振り返ってみると2006年はアルファコムにとって転機となった年だ。

[Conceptis社のメンバー;アルファコムにて]


それまでは、米国Mosaix社のプレディクティブ・ダイヤリング・システムやCosmoCom社のASP型ACDシステムの日本でのマーケティングを担当していた。



[Visualty社のWiderman社長:ビッグサイトにて]

また、イスラエル国Conceptis社のコンピューター・パズル・システムやVisuality社の組込みソフトCIFSなどの日本支社的な業務も展開してきた。
いわば海外企業の日本マーケットでの水先案内人という役割である。
そんな中、何かブレークスルーできないかと模索していたのが2006年ということになる。

5月、日本に入ってきたばかりで、まだまだマニアックな域を出ないAsterisk ベースの電話システムをLinuxWorld2006に出展し、新世代電話システムのPRに努めたが、ビジネス市場としての手応えを感じることができなかった。

単なる電話だけでなく、コールセンターのシステムとしても必要とされる機能やツールがまだ出揃っておらず、また、システムサイズ的にも本格的に採用できるものではなかった。
当時は私が先頭に立って「 何故Asteriskか? 」ということを必死で説明しているのだが、今から考えると冷や汗ものだった。

Linuxの展示会なので、いかにもエンジニアっぽい参加者だらけだった。
彼らは電話のアプリケーションやコールセンターなどには余り興味ないのか白熱した議論は無かったが、必ず訊いてくるのが「これはAsteriskか?」ということであった。皆が皆そうである。しまいには返事するのも面倒になり、「これらはAsterisk製品です。」という貼り紙を出して凌いだことを思い出す。


Linuxの続編として、6月にはオレゴン州ポートランドにあるIntel社を訪問した。
同社内にあるLinux Foundation ・・かどうか正確な名称は失念したが・・を訪問するためだ。
Linuxカーネルの開発者であるリーナス氏に会えるかもという期待もあったが、実現しなかった。

それでも、“ムーアの法則”をその通りだと再確認できたり、宇宙服を着たようなバニー・ピープルの現場での作業の様子を見学したりしながら、われわれの“仕事や製品の米”がこんな巨大なファシリティから生まれることを実感した旅であった。

Intel社に先立ち Nike本社のスポーツキャンパスも見学した。そこは、ここでは説明しきれないほどの楽しいスポーツ天国 !!
そして、タイガーウッズが初優勝したコースでGolfを楽しんだり、いかにもアメリカ的な料理を堪能したりと、実にラグジュアリーなツアーだった。

こんな素晴らしいツアーを提供してくれたのは、成田‐ポートランド間のダイレクト便を開設したNorthwest Airlines。観光以外では、NikeIntel或いはコンベンション・ビジネス関連をアピールする一環でLinuxのグループを招待してくれたのだ。お蔭でビジネスクラスでのゆったりしたフライトが楽しめたことは言うまでもない。

関係者を除くと参加者は5名のだったが、私以外の皆さんは20〜30代の若者。還暦前の私に「今回はどういう関係で参加ですか?」と異口同音に不思議そうに訊かれた。「コールセンター業界の代表として来ました。」と答えたら、皆さん何の仕事か分からないながらも何となく納得してくれたようです。主催者から「人数合わせもあるので是非出てください。」と依頼されていたことは伏せたままで。

転機の2006年はまだ続きます。